風の微笑み

モドル

「生まれ変わりって、信じる? 秋芳あきよしくん」
 朱音あかねがふとそんなことを言い出したのは、感動を売り物にするテレビのドキュメンタリーだったか生まれ変わりがテーマの映画だったか、何かを観た影響を受けてのことだったと思う。
 外は、夏から秋へ移行する前のうっとうしい小雨がしとしとと降っていた。風はなく、じっとりとした湿度の高い暑さが身体にまとわりつき、気分は決して良くなかった。ソファに座り、頬杖をついて窓の外をぼんやりと眺める朱音は何故あんなに涼しげに見えるのだろう。本人は汗っかきなのだとぼやいていたけれど、とてもそうは見えない。
「生まれ変わり? ……さあ、あるんじゃないか?」
 俺は特に真剣に考えず投げやりに答えた。朱音が、何となく話を振っただけだろうと思っていたのだ。
 けれど朱音の口から出たのは、真面目な色の声だった。
「わたしは、生まれ変わりなんて信じない。だって―――」



 朱音はその時にもう、何かを予感していたのかもしれなかった。



 淡いモスグリーンの、無機質なリノリウムの床。拒絶するように閉ざされたくすんだ白の扉の上では、「手術中」の赤いランプが点灯している。
 嗚咽を繰り返し、手術室の前で崩れ落ちている朱音の母親。彼女に寄り添う朱音の妹。どちらともに面識があり、言葉を交わしたこともある。けれど二人には今、駆けつけた俺の姿は見えていない。普通は声をかけるものなのかもしれないが、俺自身もとても声をかけられる状態ではなかった。ただ、呆然と突っ立っているしかできなかった。
 何もかもがあまりにも急すぎる。頭がついていっておらず、情報だけが脳に流れ込んでくる。到底受け入れがたい、悲惨な事実を。

 交通事故。交差点での正面衝突。車は炎上。飛ばされた車が、信号待ちをしていた数人の人だかりに突っ込んで……。

 ふっと、視界から赤い光が消えた。それから数秒後、ビーッと音がしてドアが自動的に開いて手術衣を着た医者が出てきた。……そして、首を横に振った。
「手は尽くしましたが……搬送されてきた時点で、既に意識はありませんでした……」
 朱音の母親の嗚咽が、号泣に変わった。間もなく、看護婦二人が白い布をすっぽり被せたストレッチャーを押して手術室から出てきた。朱音の母親と妹は、泣きながらそれにすがりついて行く。
 俺はまだ、その場に立ち尽くしたままだった。


「……秋芳さん……」
 弱弱しく震えた声を聞いて、俺は遠のきかけていた意識をぐっと掴んで目を開けた。
 あの後俺はどうして良いやらわからず、とりあえず朱音のいる霊安室へ足を運んだ。薄く開いたドアの向こうではすすり泣きが続いており、とても入ることはできなかったので入り口の横に座りこんでいたのだ。
 声をかけてきてくれたのは、朱音の妹で三つ年下の藍菜あいなだった。朱音とよく似た顔立ちだが、目の印象が少しきつい。しかし今は、泣きはらしてその印象は消えている。
「すみません……あの、入ってください。お姉ちゃんに、逢ってあげてください」
 俺は、無言で立ち上がった。長い間同じ姿勢でしゃがんでいたため、軽く眩暈がした。
 霊安室の中は薄暗かった。故意か偶然か、蛍光灯の光が暗くなっているのだ。だからよけい、朱音の顔に被せられた布の白が映えて見えた。
 ベッドの横にある組み立て椅子には、朱音の母親が座っている。俺の姿を見て軽く会釈をしてくれたので、俺も同じように会釈を返した。言葉は、とても出せる状態ではなかった。
 俺は椅子が置いてあるのとは逆の、ベッドの左側に立った。そして、震える手で白い布をつまみ上げた。
 人形のように、つるりとした青白い肌。かたく閉じられた瞳。生気の感じられぬ青紫色の唇。……これが、命失われた朱音の姿。
「朱音……?」
 おそるおそる、名前を呼んでみた。もしかしたら、俺の声を聞けば朱音は目を覚ますんじゃないかと本気で思った。けれどそんな夢のようなことが起こるわけはなく、朱音は静かに横たわっているだけだった。
「朱音……、朱音……っ」
 それでも呼ばずには居れなかった。朱音の硬直した肩を掴み、ただ名を呼んだ。母親も藍菜も、またすすり泣きをはじめていた。
 朱音は帰ってこないのだと、この時初めて理解したような気がした。



 朱音の死から、一週間が経った。
 通夜だ葬式だとバタバタしていた雰囲気はやっと収まった。身内に混じって手伝いをしていた俺は、忙しさであまり朱音の死を直面して考えずに済んでいたが、ぽっかりと独りの時間ができると、どうしても朱音を思い出してしまう。
 充電器に差し込まれたまま放ってある携帯電話。朱音からの連絡がなければ、こんなにも必要のないものだったんだと改めて気づかされた。
 俺の部屋には、朱音との思い出が溢れている。朱音の趣味であるディズニーキャラクターの写真立てにはツーショットの写真が収められているし、CDラックには朱音の影響で聴くようになった女性シンガーのアルバムがいくつもあるし、ふたりで北海道旅行に行った時に買ったガイドマップが未だに本棚に立てかけられている。
 涙は出ない。けれどとてつもなく大きな喪失感が胸のうちにある。
 でもふと思うのだ。
 朱音は今でも生きていて、ふとした瞬間に携帯電話は朱音専用の着信メロディを鳴らすのではないかと。
 大学に行けば、いつもと変わらぬ姿でいる朱音に逢えるのではないかと。
 でも、やっぱり居ないのだと理性は言う。けれど感情は、まだ生きているかもしれないと思う。
 人の心とはこんなにも、何かを失うことに保守的なのだ。事実を受け容れられないのだ。
 開けっ放しの窓から、さらさらと風がそよいでカーテンを優しく揺らす。
 俺はハッと顔を上げた。


「わたしは、生まれ変わりなんて信じない。だって―――」


 頬杖をつき、物憂げに窓の外を眺める朱音の姿が蘇る。鎖骨あたりまで伸ばしたストレート・ヘアが横顔に陰りを落としていた。美容院で染めたマロン・ブラウンの髪色は、陽に当たるときらきらと綺麗で気に入っていると朱音は言っていたが、雨雲の下ではいつもより暗い色合いに見えた。


「だって、わたしはわたしだもの。秋芳くんは秋芳くん。わたしたちは此処でしか出逢わないし、ここでしか愛し合わない、絶対」


 何て淋しいことを言うんだ、と今は思うが、だけど朱音の言い分もわかる気がした。
 惹かれあう相手に出逢うということは、それほど刹那的で、それほど運命じみたものなのだ、きっと。
 でもそれだけじゃなくて、朱音はこう付け足したのだ。……俺をまっすぐに見て、朱音らしい笑顔を浮かべて。


「でもね、天国は信じてるんだ。魂が消えるまで……、天国にいる間は、わたしと秋芳くんはずっと愛し合っていられるはずだよ」


 澄みきった空には、薄くたなびくような雲がいくつも流れている。
 天国は、この空の何処かにあるのかな。朱音、君はその何処かに居て、俺を待っていてくれるのかな。
 俺が天国へ行くまで、何十年もかかるかもしれないけど、待っていてくれるのかな。
 またさらりとカーテンを揺らした風は、朱音の微笑みに似て、優しく俺の心を撫でた。

 (2006.7.5 一部訂正)



  「あなたの窓辺に」短編部門 参加作品
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