テーマ競作「空の行方」

年齢制限=なし 本編=なし 読者制限=制限なし

あの空に手が届く

咲実



 家から自転車で十五分ほど駆けたところに、ちいさな美術館がある。市営のその美術館は図書館の二階を使った、決して広くはないところだけれど、私はその場所が好きだった。
 最寄り駅の隣に位置する、普段は足を運ばないところにある美術館に初めて行ったのは、小学校の六年生のときだった。受験勉強の片手間に描いた水彩画が市のコンクールに出品されて、母親に連れられてそれを見に行った。
 友人とも何度か顔を合わせて、ものすごく恥ずかしかったけれど、自分でもなかなかの出来だと思っているその絵に励まされて、私は今通っている進学校に合格したようなものだった。
 それは暗い空間と、一本の桜を描いたものだった。
 モデルは学校の二十五メートルプールの横に張り出した大きな桜、けれど私の頭の中でとんでもなく幻想的に変換されたその映像は、大きな満月の笑う夜空と闇がとろりと溶けたような湖とに映った桜の樹として描かれたのだ。
 けれどもそれ以後は、私の描いた絵がまわりに評価されることも、作者自身に気に入られることもまったくなかった。中学校に入ってから描いた三枚の絵はどれもつまらないものだったし、特にいちばん最近のものである油絵なんて目も当てられない出来だった。ごまかしのきかないべったりとした筆づかいで、日ごろの臆病ですらある繊細さを忘れてしまったように描いたからだろうか。
 だからあの桜樹の絵は、幼い日の美しい思い出のように私の心の中で咲き続けている。
 桜の命は儚いけれど、私の絵はいつまでもその薄紅を誇り続けるのだ。いつか、桜の花弁をすべて巻き込んでなぎ倒してしまう突風が吹き荒れるその日まで。


 暑い夏の日、帽子を忘れた私は炎天下の道のりを自転車で飛ばしてきたためにすっかりへばってしまっていた。二百円という、昔はともかく今の懐具合から言うと高いわけではない入館料を払って美術館に入る前に、ロビーでつめたいコーヒーを飲み干す。ホットでもアイスでも、私が飲むコーヒーはブラックだ。両親と甘いものの苦手な兄に囲まれて、コーヒーは何も入れずに飲むものだというのを常識として育てられてきたのをいまさら変えるのは難しい。甘いのも、嫌いではないけれど。
 ロビーには人はいなかった。図書館は夏休みの宿題をする学生で盛況だけれど、美術館のほうは閑散としている。天井が高くて、外からは三階建てくらいには見える空間はひんやりと涼しくて、人で混みあった図書館よりもよほど居心地がいいというのに。
 受付の女の人、お母さんと同い年くらいの飯島さんとはもうすっかり顔見知りだ。ときどきは奢ってもらうこともある。それはコーヒーだったり入館料だったりするけれど。
 手で首すじを扇いで、汗が引いたところで入館する。見慣れた常設展示を横目に、私は奥へと進む。
 角を曲がって目を上げると、その絵が視界に飛び込んでくる。
 何度経験しても驚きと新鮮な感動の消えない、三年前から私を虜にして放さない絵だった。


 それは空のいろ。
 私が描いたような暗い夜空ではなく、ちょうど今日の空のようなくっきりと冴え渡った蒼い色。ひとすじの雲と翼を広げた天使のような鳥と、そんなものがくりひろげる天上の世界が描かれている。
 見つめているとざわざわと心が落ち着かなくなる。ぴかぴかに磨かれた床を見つめていると、自分がひどくあやうい硝子一枚の上に立っているのではないかと疑ってしまうのに似ている。真っ青な湖に薄氷が張ったかのように、この空へ墜ちていってしまいそうな錯覚を覚える――――。
 この空に浮かびたい、あるいはすっぽりと埋まってしまいたいと思うのは、どこかおかしいことだろうか。まるで生命のふるさとである海を想うように恋い慕う、けれどまぎれもなく高い天空だと知っているこの風景。
 私がこの絵を所有することができたなら、きっとこの空で溺れてしまう。深く澄んだ蒼にひきこまれて、溺れるようにこの絵にしがみついてしまう。
 美術館の静謐な空間の守り神のように存在している、そんな距離が私とこの絵にはちょうどいい。
 この絵の作者が誰なのか、私は知らない。けれど、よくもまあこんなに私の心をとらえて離さない絵を描いてくれたものだと思う。こうして美術館に飾られている一枚の絵のために、私は毎週末のようにここに通いつめているのだから。
 この絵に、名前はない。
 絵の下には年号とともに、『伊藤翔』という名前が入っている。実体を伴わないこの三文字は単なる記号でしかなくて、私が本当に知りたいことの答えではない。
 この絵を誰が描いたかなんて、問題じゃない。この人が描いたほかの絵が飾られていても、私はこの空ほどの愛着を覚えはしないだろうから。この、名前もない空の絵は決して芸術的な価値があるようなものじゃないけれど、私にとってはかけがえのない、あの自らうみだした桜の横に並ぶくらいの比重を持っているものなのだ。
 美術館に飾られている絵と自分の描いた子供のらくがきを同列に言うなんておこがましいとは思うけれど、私の中の扱いはそう変わらない。何を貶めているのでも高めているのでもなく、ただ好きなものは好きと言っているだけだ。
 空の絵の前に置かれた丸い椅子に陣取って、私は今日も空を眺める。
 ほんものの夏の空よりも涼しげで美しく、どこかつめたい印象も受けるこの空は、一度出逢うと最低でも一時間は私を離さない。


「……こんにちは」
 絵を眺め始めて三十分ほど立ったころ、職員の一人である――飯島さんと違って、こちらの人は名前を知らない――お姉さんが冷やしたココアを差し入れてくれた。紙コップに入ったそれはさっきコーヒーを飲んだ自動販売機のものだけれど、しゃりしゃりとした氷が入ったココアを私はこよなく愛している。
 小さな市営の美術館に三年間通い詰めの私は相当珍しい存在らしく、お姉さんはこうやって飲み物を飲むのも黙認してくれるし、カメラであの空を撮らせてくれたこともある。ただ、私のような不器用な人間がデジタルカメラで撮った絵は本物とは似ても似つかないもので、あのさえざえとした印象はひとかけらもなく、ぼやけたただの蒼にしかならなかった。
 大きな美術館の有名な作品だったら、ポストカードにでもなってるんだろうけど、市営美術館の無名の絵ではそれも期待できない。私一人がこの絵を愛好していたところで、どうにもならないのが現状だ。
 そんな私のざれごとにいつも付き合ってくれている人であるお姉さんは、私の隣の椅子に座って足を組んだ。なかなかきれいな人だといつも思う。
「あなた、本当にこの絵が好きよね」
「はい、ずっと」
 お互いに名前も知らない関係だけれど、お姉さんは美術館の作品のすべてに愛のまなざしを注いでいる。それは私の好きな空にももちろんで、こうしてときどき空を鑑賞している私のとなりで眺めていたりする。
「私も、好き。なんてことないただの絵だけど、和むとか癒されるとか、そんなのじゃ表せない気持ちになるわ」
「モナ・リサだって、ただの女のひとの絵ですよ。少なくとも、私はこっちのほうがずっと好き」
「あら……」
 お姉さんは唇の端で微笑した。まあちょっと生意気な言葉だったかもしれないけど――でも私は、美術品の価値って本当にわからないよなあと思うのだ。
「きっと、あなたが一番の常連さんよ」
 この美術館、ちょっと廃れてるでしょ――と言ってお姉さんは笑った。だけど今の市長さんが美術館擁護派であるおかげで、予算には余裕があるらしい。前の市長さんのときはひどいものだったそうだ。
「この絵、誰が、どんなときに描いたんでしょうね」
 蒼い空を見ながら、私は自分にでも、お姉さんにでもなく呟いた。
 この絵を描いた伊藤というひとは、いつ、どんな気分のときにこの空を見たんだろう。私が知りたいのはそれだけで、あとは絵をずっと見ていられれば何もいらない――――。
「さあ……私がここに赴任してきたときには、もう既にこの絵はここにあったのよ。だからちょっと……。今度、調べてみましょうか」
「いえ、そこまでしてもらうほどじゃないです。この絵がここにあるっていうだけで、私は」
 幸せだな、と思った。


 図書館で現代文のレポートを終えたあと、自分へのご褒美も兼ねて二階の美術館に上がった。今日はコーヒーはなし、入館料だけ払って中に入る。今日の受付はあのお姉さんで、いつになく大きな荷物を抱えた私を見てちょっと笑った。
 図書館はいかにもクーラーで冷やしましたっていう涼しさだったけど、美術館はちょっと違う。ちがうわけはなくて同じ建物の中の空調で管理されてるわけだけど、こちらのほうが健康的に涼しい気がする。明らかにひいきだと自分でも思うけど、仕方がない。
 いつもの空の絵の前に歩いていくと、そこには先客がいた。私と同い年くらいの男の子で、私が勝手に指定席にしている椅子に座っている。どうやら彼も、あの空を見ているようだ。
 この前来たとき職員のお姉さんと一緒に座ったあそこには、椅子が二つしかない。せめて一つ間をあけられたらよかったんだけど、さすがに隣に座るのははばかられたので立って眺めることにした。どうせ、しばらくしたら立ち去ってくれるだろう。
 けれど予想に反して、十五分経っても彼はそこを立ち退かなかった。休憩にしても長すぎるし、何か課題をやっているふうでもない。首をかしげて壁にもたれかかる。しばらく水分を取っていないせいか、ほんの少しだけくらくらっとした。
 これはすぐに休めという体からの警告だ。私は絵の前までふらふらと歩いていき、観葉植物の鉢の隣にある椅子に腰をおろした。目の前でにじむ蒼。思ってたより限界が近かったらしいけど、休むのが間に合ったからしばらくじっとしていれば家まで無事に帰りつけるはずだ。
 絵を見つめて、目を細める。彼は微動だにせず絵を見つめていた。
 これは、どちらが先にここを立ち去るか勝負かな。


 財布だけ持って立ち上がった。私の体はどうやら、水分をとらないとだめらしい。いまだに絵を見つめている彼を横目で見て、自動販売機があるロビーを目指す。
 お姉さんを見て自販機を指し示して、いつもは飲まないスポーツドリンクを買った。一気に飲み干して、よろよろと戻っていく。
 もう帰ろう、意地なんて張ってないで。そう思って荷物を持つ。
 気分はだいぶ楽になった。

 絵の前を立ち去るとき、最後に、彼と目があったような気がした。


 クラブもない日の明け方、夢を見た。
 朝涼しい状態で目覚められるようにセットしてあるクーラーが控えめに作動しはじめた時間だったと思う。その夜は少し暑くて寝苦しくて、汗をかいていた。
 夢の中に広がっているのは、あの空だった。優しい蒼が頭上にかかり、穏やかな風が吹いている。夢の中で空を見上げることはあったけれど、ここまで忠実にあの蒼を再現できたのは初めてと言ってよかった。
 季節は真夏だというのに、夢の中では春だった。大きな家の庭先に、かわいらしい赤白黄色のチューリップが咲いている。あの空は春のものだったのか、となぜか納得してしまった。これは私の夢なのに。
 私は、庭の芝生の上に寝転んでいた。暖かでやわらかな陽射しが顎と頬のあたりをくすぐって、まるで子供のように笑い声を立てる。その笑い声は二重奏で、誰かと一緒にいることがわかった。
 甲高い子供の笑い声。誰かが隣にいるのはわかったけれど、夢の中の私はそれが誰なのか認識してくれない。
 誰か幼友達と遊んでいるんだということは理解できた。私は夢の中で幼い子供に返っていたのだ。、だけど、それは誰だろう。私の愛する空が広がる夢の中で、こんなに仲睦まじく転げまわっているのは……。
 この夢が現実に則しているならば、今私の友人でこんなに親密な人は一人しかいない。けれど私は、彼女の子供のころの姿は知らない。中学に入ってからの友人だからだ。
『空を見てごらん』
 太い声に、呼びかけられる。空? 見てるわ、いつもいつも、美術館に通いつめて見つめてる、私の空。
『この空を今から、君たちのために切り取ってあげるから』
 私たちのための空?
 優しい蒼の毛布のように心地よい空?
 これは、私たちのためのもの?
――この夢が現実に則しているならば……。
 私はひんやりとした空に手を伸ばす。隣のこの子は誰だろうと思いながら。記憶を掘り起こしてみても、それはわからない。
『どうして、雨なんて降るんだろう』
 隣から拗ねたような声がきこえた。男の子の声なのか女の子の声なのか、幼い口調からはわからない。
『ずっと晴れたままで、この空を見られればいいのに――』
 そう、私は知っている。
 その願いのために、蒼い空が切り取られたということを。
 同じことを希ったからこそ、今私はあんなにもあの空の絵に魅了されているのだということを……。


 目覚めるとその日は雨だった。夢の中で見たすっきりと晴れた空を思い出して、今日はずっと家に閉じこもっていようと決心する。友達と遊ぶ、クラブに出る、それ以外に外に出なければならない用事がどれくらいあるだろう。ひたすら問題集を解いている、たまにはそんな日があってもいい。
 八時ごろに起きて、久しぶりに父と兄がそろっているところを目の当たりにした。二人とも帰ってくるのが遅いし、成人したばかりの兄は起きるのが遅い。まったくいい身分だと思う。
「おはよう……お母さんは?」
 もう食事を終えてコーヒーを飲んでいる父に聞くと、お隣の小母さんの家で話しこんでいるという返事があった。兄はまだ起きたばかりのようで、ぼんやりとニュースを見ている。おそらく、内容はまったく頭に入っていない。
「なあ、焼くなら、俺の分も――」
 ひらたい食パンを取り出すと、兄はよく回っていない口で言った。この人は母が作ってあげなければ朝ごはんくらいなら平気で抜く。
 仕方がないので、二枚のパンをトーストした。
 一枚を手渡して自分の分にブルーベリーのジャムを塗ったところで、父が立ち上がった。コーヒーカップを流しまで運ぶのは、やっぱり私の役目だった。
「いってらっしゃい」
 雨なのに大変だな。
「お兄ちゃん、今日はどこか出かけるの?」
「まあな、どこかはわからないけど……」
 兄にとって最近、家は寝る場所と無料でごはんが食べられる場所になりつつある。彼女のところにでも行くのだろう。この兄の行動は、私には理解ができない。
「お皿とカップ、自分で片付けておいてね。お母さんが帰ってこなかったら、テレビ消して」
 子供に注意を与えるようにくどくどとあげつらねて、私は洗面所へ向かった。顔を洗って髪の毛を梳かして歯を磨く。今日はどこかに出かけなくてもいいので、着替えが一番最後にまわされている。このままパジャマで過ごしたいな、とも思ったけれどそんな自堕落になるには早すぎる。
 部屋に戻って、クローゼットから普段着を引っ張り出した。ベッドの上で着替えていると、横の壁に飾った桜の絵が目に入る。

 それからしばらく、雨とクラブと宿題と親戚づきあいに邪魔されて、私は美術館に行くことができなかった。


 ひさびさに美術館に足を踏み入れたのは、夏休みが終わってからだった。ずいぶんと間があいてしまったけれど、これくらいならちょっと忙しい時期にはよくあることだ。これからは文化祭の用意もしなきゃいけないから、そうたびたび来ることはできなくなるだろう。
 蒼を補給する意味で、朝から晩まで絵の前に陣取っていたいくらいだ。さすがにそれは無理だけれど、一度でもそれに似たことができたらどんなに幸せだろう。
「こんにちは」
 受付のお姉さんに挨拶すると、お姉さんは驚いたような、少しいつもと勝手の違うまなざしを私に向けた。何かを言いよどむようなそぶりをするのをじっと見つめると、ためらったあと言った。
「こんにちは。……二学期が始まったのよね、最近来てなかったけど……」
「はい、ついこのあいだまで夏休みでした」
「あの――あのね、あなたは悲しむと思うんだけど」
 私が悲しむようなできごと……?
 そんなことが何かあっただろうか。
「あなたが最後に来た日……ええと、私が休みの日に来てなければなんだけど、そのすぐあとに、館長に言われたの。あの空の絵を引き取りたいって連絡があったって」
「――どういうことですか?」
 夢の中では、私たちのために描かれた空。きかされた言葉をうまく処理できなくて、返答に困る。
「作者の、伊藤さん……伊藤翔さんよね、その人は、二年くらい前に奥様と離婚したらしいのよ。そのとき、奥様と奥様に引き取られた息子さんが慰謝料のかわりに絵を持っていって、ここに飾らせてくださっていたの。だけど……だけど」
 お姉さんは声をつまらせた。何か言いにくいわけのようだった。
「伊藤さんが、亡くなって」
――亡くなって。
「今までは市内に住んでいたんだけど、偶然同じ時期に引っ越すことになったから、思い出のために絵を引き取って家に飾りたいって、奥様がおっしゃったの。だから――あの絵はもう、ここにはないのよ」
 もともと小さな美術館だし、そんなに価値のある絵もないし、作者かその縁故の方が引き取りたいと言った作品を返さないようなことはしない。
 お姉さんはそう言って、申し訳なさそうに視線を泳がせた。瞬きの回数も減らして立ち尽くしている私に、紙コップのコーヒーを買ってきてくれる。
「……ありがとう、ございます」
 驚くほどかすれた声が出た。
 あの絵が、ない。ただそれだけのことなのに、ショックで頭が真っ白になった。
 亡くなった人を偲んで絵を飾っておきたいというのなら、私にそれを止める権利はない。私がいくらあの絵を愛していたって、――たとえ離婚していたとしても――前の旦那さんを思うその奥さんの気持ちのほうが大きいと思うから。
 だけど、まるで優等生のようにそう思う自分と、あの絵に愛着を感じる自分とは別人のように違う面を持っていて、今すぐに空を返してと叫んで泣き出してしまいそうにもなるのだ。
「最後にね、写真撮っておいたの。あなたが撮ったのよりいいと思うんだけど……持っていって」
「はい。いただきます。あの――今あの場所には、何がありますか?」
「別の方の絵よ。市内で油絵の教室を開いてる先生の。あなたが好きになれるような絵かどうかはわからない」
 とりあえず、あの場所まで行ってみよう。絵だけでなく、あの空間も私は好きなのだから。
 最後に見たあの空の絵が夢の中のあいまいなものだなんて、ひどすぎると思いながら歩いた。いつもの場所につくと、椅子に倒れこむように座った。
――あの日まで、ここには空があった……。
 今は、もう見られない。目の前に展示されているのは、何か金管楽器を吹く女の人の姿だ。
 あの空が見たい。
 あの空はどこへ行ったの。
 怒りと諦めを同時に感じながら、私は途方にくれてため息をついた。


「――さつきっ」
 しばらく空の跡地の前でぼんやりしていると、背中から少し怒ったような、焦ったような声が聞こえてきた。親しい人の声を聞き間違えるなんてことはしたことないけれど、名前を堂々と呼び捨てにするこの声の持ち主に心当たりはなかった。
 男の子だ、学校が同じ生徒か、と思いながら、ゆっくりと振り向いた。
「……あれ……」
 私が最後にあの絵を見た日、ここに来ていた子だった。いったい誰なのかわからないけれど、向こうは私のことを知っているらしい。さつきというのは私の名前だし、今ここに他の人間はいない。呼ばれたのはまぎれもなく私だ。
「このまえ、会った……」
 口の中だけで呟くと、彼はもう一度私を呼んだ。
「さつき……?」
 今度は、なんとなく自信がなさそうな調子だった。彼が私を知っているように、私が彼を知っているという反応を示さないから、不安になっているのかもしれない。
「あの、私さつきだけど……あなたは」
 彼は軽く目をみはり、私の横の椅子に腰掛けた。
「坂元洸。二年前までは伊藤洸」
「うん、それで?」
「にぶいなお前。……ここにあった絵は、俺と母親が引き取ってったんだ」
「ああ――それで。作者の人の、別れた奥さんと子供さん」
 だけどどうして私のことを知ってるんだろう。
 彼は頭をがしがしとかきまわし、私のことを見おろした。そんなに高いわけではないけれど、やっぱりちょっと視線の高さに差がある。
「覚えてないのか? もしかして、幼稚園以前の記憶はないとかいうやつか?」
 小さい頃の記憶というものには、個人差がある。生まれ落ちた瞬間のことから覚えているという人間もいれば、人より遅くからの記憶しかないという人もいる。
 確かに、私には小学校に入る前までの記憶はほとんどないけど、もしかしてこの子はそのときの友人なんだろうか。
 それを考えると、夏休みの朝見た夢が頭の中によみがえってきた。
 まだ小さかった私。甲高い子供の声。蒼い空。イーゼルを立てて絵を描いていたあの人――――。
「もしかして私、あなたのお父さんがあの絵を描いてるときに側にいた……?」
 夢で見たそのままの可能性を口にすると、彼ははっきりとうなずいた。
「俺が昔住んでた家の庭だろう? さつきは、父さんがあの絵を描いてる間は毎日うちに遊びに来てた」
「そんな……」
 呆然と呟くと、彼は立ち上がってポケットに片手を差し込んだ。
「冷たいよな、さつきは。まったく覚えてないんだからさ」


 私は、だいたいのことを思い出した。
 私が知っていた頃の彼は伊藤洸といって、私がひかちゃんと呼んでいた幼なじみだった。
 私が幼稚園生だったころの二年間だけ近所に住んでいた彼は、小学校にあがるまえに住居を移して、もちろん小学校は違うところへ行ってしまったし、中学校は私が受験したために一緒になる可能性はまったくなかった。
 まさか――薄情なことだけれど――今の今まで忘れていた『ひかちゃん』が空の絵を描いた人の息子だなんて思ってもみなかったけれど、あの日見た夢は私が忘れているいっさいのことがらを示唆する、とんでもなく重要な夢だったのだ。
 自分の記憶の薄弱さにあらためて後悔して、私は今ひかちゃん――洸と一緒にロビーで向かい合っていた。
「絵描きの小父さん……亡くなったの?」
 わかりきっていることを私は尋ねた。
「ああ、先月」
 うつむいて爪をいじる。小さい頃からずっと母親に注意されて癖ことだけれど、なおらない。
「あの絵は、今は俺のところに飾ってあるよ」
――やっぱり。
 彼もやっぱり、小父さんが描いたあの空の絵にたまらない愛着を感じていたんだ。
「父さんが――あの絵は俺だけのために描いたものじゃない、さつきと俺のものだって言うから、どうにかして会いたかったんだけど」
 私は中学に入ってから引っ越した。多分、幼稚園時代のつてしか持っていない洸が居場所を探し当てるのは困難だった。
「このまえ、偶然さつきを見かけて――最初はわからなかったけど、家に帰って写真を見てみたらわかったんだ。お前、全然変わってないから」
「うん、よく言われる。……私は気づかなかった。知らない子が、私と同じ絵を好きなんだと思ってた」
「まさか」
 洸は私のことを可笑しそうに見て、手の中の紙コップに視線を落とした。中身は同じコーヒーだけど、ミルクとクリームをたっぷりにしていたところを見てしまった。
 顔をあげて再びこちらを見た眼はとても真摯で、思いがけずうろたえた。つい最近夢で思い出したばかりの幼なじみ、小さい頃の顔なんて覚えてないけれど大きく変わったことがわかる大人びた顔立ち。まだまだ成長途中だけれど、これからもっともっと男らしくなっていく。
 彼は私が知っていた『ひかちゃん』であるはずなのに、その面影は彼にも私にも微塵も見られなくて、少し戸惑う。もしかしたら私は、たった二回美術館で見ただけの、知りあったばかりの子と話しているだけなのではないかと、そんな不安も頭をよぎる。
「なあさつき――あの絵、見に来るだろ?」
 あたりまえのように、それでいて縋るように洸が言った。
「どこに?」
「俺の家だよ、あたりまえだろ」
「場所は? 引っ越したんでしょう?」
 今日は五百円玉がポケットに入ってただけだったから、入館料を払ってコーヒーを飲んだら半分も残らない。交通費がかかる場所だったら行けないだろう。
「そうだな、電車で一時間くらい……」
 無理だ。二百円では行けない。
 それを言うと、洸はそこそこ整っている顔をあからさまに失望しましたという表情で彩って私を見つめた。お願いだから来てくれ、と甘えられているような気分になる。おそらく、それが正しいんだろうけど。
「電車代なら俺が払うから」
「だめ。お金の貸し借りはしたくないの」
「返さなくていいってば」
「恋人以外に奢られるのは嫌」
 例外が一人だけいるけれど。
「――いるのか?」
「ううん、いないよ」
 首を振った。
「そう決めてるだけ。でも、絵は見たいけどとにかく今日は行けない」
 きっぱりと言うと、洸は私の腕をつかんでぐらぐらと揺さぶった。底のほうに少し残ったコーヒーが大きく波立つ。まったく、子供みたいな子だ。
「いいじゃないか、少しくらい」
 本当は私も、彼にお金を借りていけばいいと思う。それをしないのは、なんとなく彼を困らせてみたかったからだ。絵を持っていかれた恨みかもしれない。
「そういうところで妥協するのはいけないの」
 口の端で笑って言うと、洸はぎゅっと顔をゆがめてから唐突に言った。
「だったらさつき、お前――俺と付き合え」
「え、どうして……」
「いいから、付き合え」
「ううん、その理由じゃなくて、どうして急に命令形なのかなと思って……」
 彼が私をどうしても今日絵のある場所へ連れて行きたい理由がわからない。彼の口調に話を飛ばしたのは、単なるごまかしだった。洸はどうして、こんなにむきになっているのだろう。多分私はそれを知っていたけれど、意地悪な気持ちで知らん振りしているのだ。
 それ自身が、私の彼に対する信頼と甘えを示すものだけれど。
「命令形じゃいけなかったか? それじゃあええと……付き合ってください」
「ううん、無理」
「はあ? ――どうして」
 どうして断られたことに疑問をとなえるのか、そのほうが不思議だけれど。
 私は途方にくれた表情の洸に、最後のコーヒーを飲みながら言った。
「私ね、付き合うなら四六時中一緒にいられるひとって決めてるの。少なくとも、二日にいっぺんは会えないと嫌」
「無理だろ、そりゃあ」
「うん、でしょ。だから君はだめ」
 にこりと笑みを作って言うと、洸は目に見えて肩を落とした。その落胆がかわいらしいと思うのは、どこかが間違っているような気もする。
 沈み込んでしまった洸を救済するために、私は彼のコーヒーを受け取って飲み干した。やっぱり、甘い。甘いものが好きなら、今度クレープを作ってあげられるけど。
「あのね、君高校はどこに行くつもり?」
「え? さあ――まだよくわからない」
 信じられない子だ。
「じゃあ、成績はどれくらい?」
「悪かないだろな」
「それじゃあ、君が私の学校に来てよ。私は私立だから、受験はないから」
「ああ、どこだよ」
 必死の思いで中学受験をして入った学校の名前を告げると、彼は二三度大きく瞬いて絶句した。どうしたの、と問いつつ笑いをかみ殺す。


 駅まで送っていく帰り道、洸はふてくされたような口調で言った。
「……本当はな、俺がさつきに貸してる金はもうずいぶん溜まってるんだからな」
 どういうこと、と尋ねても、洸は答えなかった。
 残暑の厳しい九月の日曜日、ふわふわとやわらかい雲の上で弾むように、私は駅までの静かな道を歩いた。

――もうすぐ、あの空に手が届く。

FIN


Copyright (C) 2004 Sakumi All rights reserved.

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